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事例集Q&A
法の常識
日々雑感


  ~このコーナーは、少しずつ充実させて参ります。~


1.不動産を売買したとき、なぜ登記をしなければならないか。

 日本民法では、意思表示のみで所有権が移転します。大げさにいえば、売ろう、買おうといった意思表示のみで売買が成立し所有権が移転します。普通は契約書を交わし、代金を支払い、領収書を交付します。当事者間ではこれでOKです。

 しかし一方、所有権の移転の対抗要件として登記が要求されます。仮に甲乙間で売買を未登記のままにしておいたとします。その後、丙が甲から不動産を買って乙より先に登記をしたとします。乙は丙に所有権を主張できません。丙が甲乙間の売買を知っていてもです。これが対抗力の意味です。この一見矛盾した規定は何を意味するのでしょうか。これは登記における自由競争を意味します。つまり早い者勝ちということです。資本主義のルールですね。甲・乙間の問題は損害賠償として処理されます。ここに登記の重要性がでてくるのです。


2.民法上の善意・悪意という考え方

 一般用語としての「善意」「悪意」という言葉と民法上の「善意」「悪意」という用語には若干の違いがあります。

 民法上の悪意とは、一言で言えば、有る事実を知っているということであり、善意とは有る事実を知らなかったということです。

 この善意か悪意かで法律の内容が異なる場合があります。典型的な例を挙げてみましょう。

 Aがその財産(ここでは土地としておきましょう)を隠匿する目的でBと結託して売買するつもりがないのに売買を装ってAの土地をBに所有権移転登記したとしましょう。勿論この行為、AとBの間では無効です。  AはBに登記を戻せとか 抹消しろとか言えます。しかし善意(ここでは更に無過失が要求されますが)の第三者CにBが転売したとします。AはCに登記を抹消しろとは言えません。このような外観を作り出したAよりCを保護すべきであるとの考え方ですね。納得できる結論です。
 では悪意でも保護される例を挙げてみましょう。

 まず前項1の不動産の二重譲渡の場合ですが、この場合悪意の丙が保護されることは前項で説明したとおりです。

もう一つ例を挙げてみましょう。

 BがAに3000万円貸して抵当権を付ける契約(抵当権設定契約と言います)をしたとしましょう。これを知っていながらCがAに2000万円貸して、Cも又抵当権を付ける契約をしたとしましょう。BとCの優劣は正に早いもの順です。Cが先に登記をすればCはBに優先します。Aの返済が滞って競売になり、3000万円で売れた場合、Cは全額回収できますが Bは500万円しか回収できません。

 このように悪意でも保護されるのは正に自由競争の原理が働く場合です。つまり日本民法は自由競争の考え方を根底にしているのですね。

  話は逸れますが、日本では昔から「悪」という言葉は必ずしも悪いという意味ではありません。

 源氏の有名な頭領源義平は悪源太の別名がありました。この悪というのは悪いという意味ではなく限りなく強いと言う意味ですね。なるほど平治物語に登場するこの人物、剛勇無双、史上最強に近い強さです。又、平家物語に登場し、歌舞伎の題材にもなっている悪七兵衛景清も悪い人ではありません。この辺りもっと語りたいのですが、脱線が過ぎてはいけませんね。


3.被後見人の死

 平成21年12月4日、当職が法定後見人を引き受けている女性の方が亡くなられました。この方、長年、病気で入院されていたのですが、病状が安定したのでかねて希望していた、海の見える横須賀市内の老人ホームに入所されたのです。当職はリーガルサポートを通じてこの人を紹介され、はじめてお会いしたのは20年の10月でした。幸いすぐ私を覚えてくれて、何度か面談をして、21年5月に後見人に就任しました。7月に老人ホームへ引っ越ししてこのホームで暮らしていたのですが、12月4日朝、急に体調を崩され夜7時頃亡くなりました。

 私も初め慌てましたが、葬儀社さんの手配などその日のうちに済ませ、横浜にお住まいの姪御さんに火葬の立会から納骨までお願いしました。実はご本人が四国の出身で近くに親戚がいません。わずかにこの姪御さんのみが偶々横浜に住んでいました。ただ50年ほど会っていません。当職はこの姪御さんに昨年10月連絡をして、姪御さんのご意志で本人と久々の対面が果たせました。為に事後の手続きが円滑にいきました。又、ご本人のご主人のお墓の場所も調べておきました。お墓も夫婦一緒がよいのでは思ったからです。このお寺の住職とも連絡が取れて納骨の手配をすることができました。

 死に対してあまり用意周到になるのは気が引けるものです。しかし我々はプロとして後見人になるのですから、必ず来るであろう最期の時への対応をしっかりできるようにしておかなければならないのですね。

 人間の一生ということについて少し考えさせられる出来事でした。


                                                                   平成22年1月14日記















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